瞑想とあそぼ。

楽しく人生を過ごすために、瞑想始めてみました。

へこんだりするのは、雑念のせいだと思う。

はじめに

 こんにちは、まめたろうです。今日は瞑想日記として、瞑想を経験してから気がついたことを書きたいと思います。へこむことも多い人生ですが、そこから立ち直って社会で生きてかないとなりません。この「へこむ」ってことについて自分なりに少し見つめてみた結果を書いていきます。

 

へこむってなんだ

そもそも、へこむってどういうことなんでしょうか。他人から嫌なことを言われたり、自分の思ったとおりの出来栄えの仕事ができなかったりした時はへこみます。さらに、親しい友人がへこんでいるときだって、こっちまでへこんできます。瞑想中も、色々なことを思い出してはへこみます。

 へこむって、心の動きだと思います。もしくは、脳内のバランスが乱れた状態だと思います。自分の心(密接に繋がっている脳)の動きこそがへこみの正体です。へこんでいると、色々なことをネガティブに捉えてしまったり、自分のパフォーマンスも落ちます。遊んでいたり、飲みに行っているときでもどこか楽しめません。

 

へこみを作る出来事

 そんなとき、いつでも「へこみを作っている出来事」が同時に頭を支配しています。結局、へこむっていうのは、外の出来事に対する反応なんだと思います。嫌だった出来事の記憶→脳が反応→へこむ→物事を悪く捉える→嫌な出来事と捉えたしまった事実→脳が反応→へこむ。。。こんなことをしていれば、どんどんへこんでいきます。

 こんなとき、誰かに相談にのってもらったり、愚痴を聞いてもらったりして、復活することもあります。でも、その内容があまり友人などには話したくないようだった場合には、どうでしょうか。自分でこの負の連鎖を解いていくしかありません。

 気晴らしとして、好きなアニメや動画を見たり、旅行に行ったりという手段はあります。しかし、根本的な解決にはなりません。根本的な原因は、以前頭の中にネガティブな記憶として残っています。この記憶がなくなればいいのに、ポジティブな記憶になればいいのに。まめたろうはそう考えることが多かったです。

 

瞑想中の雑念はそんなネガティブばかり

 瞑想中に雑念として思い浮かぶのは、半分以上がこのような嫌だった過去の記憶、現在直面している問題など、ネガティブな問題が多いです。そうすると、雑念に引っ張られて体が反応して、恥ずかしかったなあ、ああ嫌だなあなどとネガティブな気持ちに持って行かれてしまいます。まめたろうの経験上、脳は積極的にそのような記憶を表に出してこようとします。きっと「ちゃんと警戒しろ!」といつも自分を奮い立たせようとするお節介で、有難迷惑なやつなんだと思います。

 

まめたろうの瞑想体験:へこみからの瞬時の回復

 瞑想を初めて3、4ヶ月経った頃、一つの経験をしました。少しだけ瞑想の経験を積むことで、雑念の量自体は特に減っていませんでしたが、雑念に囚われていることに気がつく速度や、呼吸やマントラに戻る速度が徐々に上がっていきました。すると、雑念に囚われて縮こまろうとしていた心が、呼吸に戻った途端に「ふっ」と軽くなり、瞑想の清々しい気持ちに取って代わられたのです。瞑想を長時間続けると、気持ちがとてもいい状態になります(変性意識状態なのでしょうか?)。そのときは、その気持ちに従って瞑想を続け、終了後も本当に気持ちが良いままの状態で、その日の生活を進めることができました。(ランニングにも同様の効果があると思います。)

 

へこみは現実世界とは関係がないところで起きている

 気づきました。へこむのは、現実とは全然関係がない。あれは幻影だ、と。タヌキに化かされたではないですが、それと同じように、幻影に対して心が勝手に反応し、悲観し、縮こまっているのです。こんなことを考えた時、「本当の敵は自分だ。自分を乗り越えなければならない」というよくあるあのフレーズの本当の意味がビシッと理解できた気がしました。

 たとえ、失敗しようが嫌なことが怒ろうが、過去のものになった途端、もしくは未来の出来事で現実には起きていないものである限り、存在せず、幻影なのです。もっと言えば、現在進行形で起きている事柄も、幻想と言えるかもしれません。なぜなら、それは自分というフィルターを通じて、自分という解釈、認識を通じて得られた世界を超えることができないからです。

 他方で、自分だけの話じゃなく、その嫌な出来事を他の人も覚えている場合もある、その場合は幻影とは言えないんじゃないかとも意見もあるかもしれません。しかしまめたろうはそれでも幻影にすぎないと思っています。出来事は、人から忘れられたかどうか、誰かが知っている出来事だったかどうかなどは根本的に重要ではありません。もっとも、ある意味で、幻影の濃度が濃いというレベルの違いはあるかもしれませんが。

 

心の力:瞑想でトレーニングする

 問題は、自分の心の力です。

 スルーする力ってネット上では言われているかもしれません。しかし、心の場合には嫌な出来事を結構長期間忘れずに温存する傾向があるので、スルーが全くできないという特徴があります。

 すべては心の力、自分の力次第なんだってことに、瞑想を通じて気がついた時、わたしは「心の強さ」って言葉はこういう意味だと思いました。それは、まめたろうなりの言葉で言えば、「すぐに呼吸に戻っていける心」です。

 一度脳に記憶された嫌な出来事はなかなか消えず、多かれ少なかれ共存していくしか道がないと思います(記憶を消す装置ができれば別ですが。)そんな記憶がフッとでてきた時、すぐに呼吸に意識を移します。

 現在嫌な出来事に直面しているのであれば、すぐに呼吸に意識を移しましょう。すると、出来事に対して反応する心の動き(ネガティブな感情)に支配されず、やるべきことが見えてきます。

 ポジティブな心はこのような「すぐに呼吸に戻っていける心」がベースで初めて生きてきます。へこんだときに、ポジティブになれというのは酷だし、無謀だと思います。呼吸に戻り幻影の魔の手を逃れて初めてポジティブな方向に動けるのだと思います。

 

 実際に、瞑想を初めてまだ10ヶ月程度ですが、感覚としてこんな風に考えるようになりました。これまでまめたろうは、へこんだときは引きずってしまいネガティブの連鎖に飲みこまれてばかりでした。今も正直言って、上に書いたみたいに「すぐに呼吸戻っていける心」が強靭で、常にポジティブ思考!ってわけには行きません。

 でも、感情は、自分の作った幻想(現実ではない。)によって生み出されている。単なるネガティブな反応にすぎない「心の動き」に支配されずに、現実を直視して、やるべきことに取り組もうと考えられるようになっています。

 

瞑想は、現実世界で生きるための基礎トレーニングだ

 辛い時もうまくいっている時も、家で瞑想に取り組んでみます。すると、それは実社会で生きるためのトレーニングのように感じられます。ネガティブな雑念とは、心が用意したトレーニング相手で、自分はそれを払いのける練習をしている。そんな風にも感じられます。

 実社会に出ても構造は全く同じです。ただ、もっと複雑な構造を持っているので、まめたろうはもう少し深く考えられたらいいなって思っています。瞑想は基礎練です。

 

 まとめますと、自分で作った幻影に自分で勝手に苦しんでしまう現象が「へこむ」だと思います。

 だらだらと長く書いてしまいました。当たり前のことを、ぐだぐだと書いてしまったので、時間を無駄にしたよ!って方がいたらごめんなさい。

 でも、最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

SEE YA ♪