瞑想とあそぼ。

楽しく人生を過ごすために、瞑想始めてみました。

瞑想して気づいたら、長年無理だったことが無理じゃなくなった話

 

こんにちは ♪

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 まめたろうです。記事を書くようになってから、一段と瞑想習慣に対する意欲が湧いてきました。ちゃんと、毎日やってます。時間や場所はまちまちですが。

 今日は、自分がこれまで無理だと思っていたことが無理じゃなくなった出来事について書きます。瞑想というトレーニングの賜物だと思っています。

 

 

人前で話すことを逃げなくなった

 まめたろうは人前で話すことが苦手です。特に、朝礼とか会議で手を上げて発言するとか。。考えただけでいやでした。憂鬱で、それが近づいてくるとテンションが下がる下がる。汗が吹き出る。

 人前で話すことは、ネットニュースを見ていたら、アメリカ人が恐怖を抱くベスト5の中で堂々たる第1位を獲得していたようです。

 まめたろうの特徴は、恐怖から逃げることでした。できる限り、触らないように触らないように気をつけていました。会議では絶対に手を上げない。人前で話す機会をなくすように積極的に頑張ることばかりしていました。

 いつも、これではダメだという意識と、実際に逃げることができたときは「よかった」「でも、次またこの恐怖から逃げる必要があるのか」などと不安は募るばかり。

 他の事柄には積極的に頑張れる人も苦手なことに対しては、逃げてしまうこともあると思います。

 

 瞑想を通じて、まめたろうは自分の中の恐怖に立ち向かうことができました。自分の現状に、これではダメだという気持ちが強くなり、瞑想でトレーニングした自分を試してみる勇気が出たのです。

 

逃げる仕組み

 逃げるとは、自己防衛です。人から変な風に思われたくないとか、緊張している姿を見せたくないなどといった考えだと思います、まめたろうの場合。

 恐怖は、どんな風にでもその姿を変えていくところが特徴です。一度逃げると、恐怖はとても大きくなります。最初は、軽い気持ちでいやだなと言って逃げていても、数回繰り返すと巨大な壁のように自分では乗り越えることができないとんでもないモンスターになります。

 まめたろうの場合、おそらく過去の失敗体験で恐怖が生まれてしまったのだと思います。しかし、恐怖はそういったトラウマ的な体験がなくても、発生します。

 一度恐怖が生まれ、逃げ始めると、大きくなった恐怖は肉体感覚にも手を出してきます。手が震えてしまったりとか。そうすると、実際に恐怖は、「存在」している、実体のあるモンスターになります。

 自分の幻想にすぎない恐怖は、とても幻想には思えなくなり、自分の中の恐怖は、現実感を強めていきます

 

アイディアは種みたい。悪い種にもいい種にもなる

 恐怖は、一つのアイディアに似ていると思います。一つのアイディアを思いついて「これ絶対にいいアイディアだ!これに従ってやれば成功する!」と考えると、それだけで気分がよくなってきます。そのアイディアを実行に移していくと、自分の中の幻想にすぎなかったアイディアは現実に形を表して、アイディアはよりリアルになり、他人に伝播していきます。

 でも、そのアイディアが悪いアイディアだったら?その種は自分の中で勝手に成長していきます。きっと人間の脳はそういったネガティブな思考をするように設定されています。そっちの方が周りを警戒しますしね。自己防衛だと思います。

 でも、その成長した種を取り除くことを考えても、そのアイディアの特徴は頭の中で根を張りなかなか抜けないことです。

 

瞑想してたら違う視点から考えるようになった

 では、まめたろうはどうしたのか? 

 それは、悪いアイディアを取り除こうとは思わないようにしました。

 具体的にいうと、瞑想を通じてこんな風に考えることに成功しました。

 仮に、まめたろうが緊張して声が震えて見ていられないような状態になっていたとして、そんな自分を見られたら、何が起こるだろう。バカにされるかもしれない。飲み会とかでネタにされるかもしれない。

 これが恐怖の根本でした。

 そして、なんで発言をするとき頭が真っ白になってしまうのかとも考えました。私は、人の目や考えが気になってしまう人間だと気がつきました。だから、頭が発言に集中できない。

 頭が真っ白にならずに集中すれば、声が震えようとちゃんと言いたいことを言える。それで笑われてしまったら自分の発言の内容が悪いのであって、人前で話すことかどうかではなく、自分の努力不足の問題だ。こんな風に考えました。

 つまり、色々な恐怖をごちゃごちゃに考えて、すべて「人前で話すことの恐怖」と捉えていましたが、違うと気がつきました。

 そして、客観的に自分を眺めると、もし他人目線で、自分が頑張って発言しているときには笑わないよなと思いました。笑うような人間はそもそも自分の人生に関係ないのです。

 恐怖は恐怖として存在する。しかし、その恐怖はよく考えれば、色々な余計なものまで勝手に恐怖として認識してしまっていた。例えば、発言内容は自分の準備とかでどうにかなります。それは努力でどうにかできます。

 人からどう思われるかっていうのと、その発言内容それ自体の良し悪しは切り離して考える問題です

  

実際にやってみた

 その後、近いうちに、勝負のときが来ました。思い切って手を上げて発言してみました。頭のなかは、「今やっていることに集中する」ということです。もし恐怖に飲まれれば、頭は他のことでいっぱいになって自分の意見をまとめることができないです。

できました。

より細かく言えば、できていないかもしれません。きっとなめらかな内容ではなかったと思います。終わった後汗ばんでもいました。しかし、自分が思っていた恐怖は起きませんでした。嘲笑されたり、自分の立場がなくなったりなど。

 むしろ、周りは認めてくれました。 もっと詳細にいうと、うなずいてくれり、発言を聞いてくれたという意味ですけど。大したものではありません。

 しかし、自分には100点満点の成功でした。

 

 ただひとつ付け加えておくと、恐怖は、そのとき、同時に存在していました

 まめたろうが慣れ親しんだ恐怖は、やはり体の心拍数をあげましたし、終わった後も体が火照っていました。しかし、今に集中することができました。

 そして、まめたろうの中ではとても小さな前進ですが、私は次のことに気がつきました。

 自分が抱いていた幻想は現実に発生しなかった。どうしてだろう。それは幻想は幻想にすぎないからだと。

 その幻想は、いかようにも姿を変えます。悪い方にも、そして、いい方にも。悪い種はいい種に変わっていくこともあるということです。

 

成功体験は相当強力な肥料に違いない

 それからまめたろうは、体から憑き物が取れたかのように、軽やかになりました。気分だけでなく、肉体的にも。少なくともその日のうちはとても上機嫌でした。 

 自分ならもうTED TALKに出ても平気だと本気で思いました笑 これほどの変化は面白いと思います。

 小さな一歩は、一番難しいのです。頭で理解したことを現実に移す勇気はやはりいきなり養われるものではなくトレーニングが必要です。

 

筋トレをするように

 私がこういった、他の人には大したことはないけど自分基準で考えれば壁を破った体験をすることができたのはやはり瞑想を通じて自分の雑念と向き合う努力を続けた体と思います。

 瞑想を通じて、自分を客観的に見ることができるようになります。「自分は今こんなことを考えているなあ」とかそうやって雑念を把握し、雑念から意識を徐々に呼吸に戻していきます。他人の考えを見ているような、多重人格のような感じですかね。

 瞑想をしない人に比べて、瞑想をする人は、このトレーニングを1回の瞑想で数十回行うことになります。それだけすれば、考え方や捉え方だってそりゃかわってきますよ。筋トレした筋肉見ればわかる笑

 

まとめ

 瞑想体験談でした。長かったし、だるいなあと思われた方、許してやってください。どこかの誰かの勇気につながればいいなあと思って、公開してみました。

 人生は自分の頭の中での考えが反映したものだというのをリアルに体験してみると面白いと思いますし、瞑想続ける気にもなるんじゃないでしょうか。

 

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最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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